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四季の移り変わり、日々の出来事を徒然なるままに書き留めました。
1月 26
二つのマフラー

マフラーを気仙沼の南町紫市場の仮店舗で営業している「暮らし舎 麦」で新調した。写真左が新しいマフラーだ。右のマフラーは私が24歳の時にイギリスのロンドンへ旅行に行ったとき、ピカデリーサーカスの近くのバーバリーの本店で買い求めたものだ。約35年間、冬には常にこのマフラーを使用していた。それがどういう心境の変化からか、無地の紺のマフラーが気に入ってしまった。多分、59歳の還暦が近い年齢で、いつまでもタータンチェックのマフラーでもないだろうと、多少の気恥ずかしさが、そうさせたのだろう。バーバリーから「わたぐも」への私なりの進歩かもしれない。(三)

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1月 26
かもめ食堂の復活(気仙沼)

今朝(1月26日)の三陸日報、朝刊に、「かもめ食堂復活」の記事が載っていた。「かもめ」は内湾のエースポート前の通り沿いの北側に店を構えていた、間口が2間ほどの小さな食堂だったが、この通りの食堂では最後までがんばっていたものの、平成18年の4月に閉店してしまった。食堂は常連さんでいつもいっぱいだった。たまに気仙沼へ帰省すると、家族でこの食堂のラーメンをご馳走になったものだ。仙台に住みながら、気仙沼の昔ながらの懐かしい味に、恋焦がれていた。そしてある時、閉店の知らせを健自から聞いた時、あの味を二度と味わえないのかと、地団太を踏んだ。食堂の小母さん達も、確かにかなりの高齢になっていた。

今朝の記事では、この食堂が2月2日に新横浜(新横浜ラーメン博物館)で6年ぶりに復活するらしい。気仙沼出身の「ちばき屋」さんが出店する。ちなみにこの店の店主は、あの「チバキ」の縁者かもしれない。カモメのラーメンの味を懐かしく思っているのは、私だけではないことに、多少慰められた。しかしとんこつラーメンやみそラーメンのようにこってりした味のラーメンが主流の時代に、果たしてかもめのラーメンが受け入れられるだろうか。私は20代後半に九州の熊本に1か月出張で滞在したことがある。この熊本のラーメンはどこへいっても、とんこつラーメンだった。しかも熊本のとんこつラーメンには、最後ににんにくを薄くスライスして油で揚げた具がたくさん乗るのが決まりだった。ラーメン好きの私は、最初、とても気に入って毎日食べていたが、さすがにとんこつ味に飽きた。そのとき無性に、東京のシンプルな中華そばを食いたくなったものだ。多分、浜っこにもこのかもめの味が時と共に受け入れられていくことでしょう。頑張ってください。

昭和30年代、40年代の内湾地区が盛況で輝いていた時代には、この界隈には多くの廻船問屋や商店があった。北から「まるしょう」「すずしん」「帆や」「かもめ」「大島屋」「樽平」「まるじん」「吉田商会」「唐桑屋」「まるや」「わたぶん」を記憶している。当時、ラーメンと言わずに「中華そば」または「シナそば」と呼んでいたが、近所で中華そばを出す店は「かもめ」「大島屋」「まるじん」の三軒だった。大島屋とまるじんの中華そばのつゆはしょうゆ味だったが、かもめだけは鶏がらをベースとした塩味だった。私の育った「唐桑屋」は魚屋だったので、母はこの3軒に万遍なく中華そばを注文していた。なぜなら、この三軒は魚を購入してくれる上得意だったからだ。私の好みからすると、かもめの中華そばが一番だった。風邪をひいて寝込んだ時には、薬の代わりに母は中華そばを注文してくれた。中華そばを食べて、汗をいっぱいかけば、風邪はすぐ直ると信じていたからだ。母にはカモメの中華そばを注文してくれるように頼んだものだ。(三)

1月 23
日帰り(気仙沼)

1月21日(土曜日)に、家内と二人で気仙沼へ日帰りで行ってきた。高速道路はかなりの混雑だったが、料金所ではETCが使えたので、スムースに仙台と気仙沼の間を往復できた。帰りには古川あたりからみぞれになり、仙台に近づくにつれて雪に変わった。翌日の日曜日に仙台は大雪となったので、土曜日に日帰りしたのは正解だった。

今回の小旅行の目的は、3月10日に予定している兄夫婦の本葬に関する打合せと葬儀に弔辞をお願いする友人への挨拶を兼ねたものだった。最初に薄井さん宅を訪れた。生前の義理の姉の大親友で、兄夫婦との知られざる交流を懐かしそうにお話しいただいた。薄井さんのお宅は、震災以降、ご親戚の避難所となり、一時は30人くらいが同居されていたそうだが、その時の苦労を明るく話された。薄井さんには弔辞をお願いしていたのだが、毎日余暇を見て文面を考えながら、兄夫婦との交流の中で、こんなことがあった、あんなことがあったと時には涙を流されることもあったそうだ。弔辞を快く引き受けていただき、有難うございました。

次に階上の千葉家を訪問した。気仙沼湾がすぐ近くに見える3階建ての鉄筋コンクリート造りのアパートだが、津波に流されずにここだけが残った。周りの民家は土台のみが残っていた。このアパートにも津波が2階まで上がったそうだが、幸い倒壊には至らなかった。望ちゃんのほかに小4の柚奈ちゃんと従姉の千香子さんが私たちを待っていた。昨年7月に執り行われた千葉家の葬儀の費用等に関する資料を借りた。従姉夫婦と孫の三名が死亡したが、亡くなった孫の姉が写真のとおり、比較的元気な姿だったことが救いだ。

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1月 18
やまない雨はない

この表題は、かつてお天気キャスターとして活躍された御年87歳の倉嶋厚さんの著書のタイトルだ。そして、氏が何かの雑誌に投稿されていたエッセーの中に、「忍耐」とはどういうことかの解説があって、私は氏のその考え方にいたく感動した覚えがある。私は昨年3月11日の大震災の結果、兄夫婦を亡くした。私は二人を亡くした悲しみの中で、あらためて氏が語った「忍耐」について、考えさせられた。

人は一般的に「やまない雨はない」と「忍耐」をリンクして考え、苦しい時に忍耐していれば、どんな雨降りもいつかは止むと同じように、どんな困難もいつかは克服できると考えがちだ。確かに社会の成功者の実例では、努力してその考え方を実践して成功を勝ち取った人がいるから、多分正しいのだろう。

しかし、ところがどっこい、氏は「忍耐」の定義について、全く違ったとらえ方をしていた。忍耐はその後の希望を踏まえての忍耐ではない。忍耐とは、その言葉の通りに、いかようにも克服できないからの忍耐なのだ、と言っている。例えばある種の病気に人間が掛かって、人間が生存するための器官の一部が損傷したとする。損傷した器官は、人知では修復不可能であるが、その人が生きているために、健常者には無い苦しい治療等の忍耐を生きている限りに続けなければならない。それは病気や怪我だけに限らないことだ。人は面倒なこと、苦しいこと、あるいは人間同士の性(さが)の軋轢に悩むことなど、どうしようもないことを抱えて生きている。「忍耐」は生き方を指す言葉ではなく、人間が生きている限り避けられない業のようなものを抱えて生きていくことを指す言葉なのだ。

先般、本ブログで「気が枯れる」を取り上げた。昨年の3.11大震災では、岩手県陸前高田の高田松原が大津波の結果、一掃される中、最後に残った1本の松が、とうとう枯れるという記事が報道されていた。この大震災では2万人余りの死者・行方不明者が発生した。遺族のみならず、被災した地域で生き残った者は、「気が枯れる」状態を脱し、本来の健康な状態へ戻ってほしいものだ。しかし中には高田松原の1本杉と同じように、いくら専門家が木に養分を与えて手厚く保護したとしても、木そのものに栄養を吸い上げる力が衰えたら枯れてしまう。木と人間は違うと叱られるかもしれないが、何となくそんな危惧をもってしまう。

そんな危惧の証左が、テレビのコマーシャルだ。テレビを見ていて、パチンコ等の娯楽業の宣伝がいかに多くなったか、ということに気付かれた人もいることだろう。そして本来復興の主役を担うべき若者が、相変わらず多くが失業している現実を考えると、政府や自治体の復興政策の在り方に、どこか誤りがあるのではと、考えざるを得ない。一方被災地の高齢者のコミニティが崩壊し、孤独死が増えていることも憂えることだ。

三陸地方は、近代では明治三陸大津波と昭和三陸大津波の大きな災害を2度経験している。自治体や政府のお役人は、その時の災害に対する復興がどのようになされたか、研究したことがあるのだろうか。そしてその研究成果を踏まえて、来たるべき大津波に対処する復興計画を立てたことがあったのだろうか。これは救援活動を言っているのではない、復興がどのようになされたかを言っているのだ。

復興とは、単なる復旧ではなくて、未来に希望が見えるものでなくてはならない。今の首相は、消費税の増税そのものが目的化してしまって、復興の履行計画の検証に気が回らないように思える。復興の足音は、被災地の被災者の身近に力強く響かなければならない。仮設住宅に住んでいる被災者にも、未来に希望が持てる力強い足音が聞こえてこなければならない。もう少し、明治、昭和の指導者を見習ったらと思う。(三)

1月 17
家系図の修正

昨日、岩手の一関の親せき宅よりFAXで、我家の家系図へ補完する情報が寄せられた。もともと我家の一族は昭和15年9月に一関から気仙沼へ移動してきたものだ。したがって気仙沼の地でお世話になってから71年が過ぎたことになる。

家系図を補正後と補正前で比較するとわかるのだが、家系図に示された2代目の「姉」「弟」の本当の名前と配偶者の名前が記載されることとなった。今まで名前がわからずもやもやしていたものが解消された。家系図に示される2代目は姉一人に弟二人の三人兄弟だった。その中に私の曽祖父の廣吉が含まれている。男兄弟の中の年長だったので、気仙沼の実家は本家ということになっている。面白いのは姉の「いち」さんが結婚しても苗字が変わらないことだ。婿を取って分家したことになる。

我家の過去帳からはここまでしか分からない。家系図トップの末吉さんとトヨさんは明治より前の幕末の生まれだ。戸籍の整備が明治以降行われたことを考えると、それ以前のご先祖様については菩提寺で調べるしか方法がないのだろう。(三)

  • 今回補正した家系図

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  • 以前の家系図

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1月 15
レジナルド・ヒルの訃報(イギリスのミステリー作家)

今朝の日経朝刊で、イギリスのミステリー作家レジナルド・ヒルの訃報が掲載されていた。享年75、英国中部のカンブリア州の自宅で逝去。今朝は家内と二人で近所のマクドナルドでゆったりとモカを飲みながら新聞を読んでいたのだが、この訃報を発見して思わず絶句。作家の訃報に接すると、その作家の冥福をお祈りするとともに、今後、その作家の新しい作品を楽しめないのが、なんとも残念と思う。

一昨年2月には、競馬をミステリー小説の舞台としたディック・フランシスが逝去されている。 またフロスト警部シリーズで一躍有名となったR.D.ウィングフィールドも2007年7月に亡くなっている。私は仙台市図書館でディック・フランシスの全作品を読破し、また日本で発表されたR.D.ウィングフィールドの全作品も読んでいる。ディック・フランシスについては、息子さんが同じ競馬シリーズで新しい作品を生み出すといっている。同じようなカリスマ性のある作品を期待したい。

レジナルド・ヒルの作品については、つい先日、「子供の悪戯」「闇の淵」を読み終えて、仙台市図書館へ返したばかりだった。作品で登場するダルジール警視は、日本の推理小説に登場する刑事や警部とは大違いの破天荒なキャラクタで大好きだった。彼の作品では、最新作の「午前零時のフーガ」(2009年刊)を残して、読み終えた。最後の「午前零時のフーガ」は泉図書館に2冊あるのだが、いつも誰かに借りられている。

ダルジール警視シリーズの日本で出版された全作品リストを下記に示す。ダルジール警視が活躍するのはイギリスの中部ヨークシャーだ。日本で言えば、ロンドン=東京、中部ヨークシャー=秋田の感覚だろう。いずれの作品もハヤカワ・ミステリで刊行されている。(三)

  • 社交好きの女(1970)
  • 殺人のすすめ(1971)
  • 秘められた感情(1973)
  • 四月の屍衣(1975)
  • 薔薇は死を夢見る(1983)
  • 死にぎわの台詞(1984)
  • 子供の悪戯(1987)
  • 闇の淵(1988)
  • 骨と沈黙(1990)
  • 甦った女(1992)
  • 完璧な絵画(1994)
  • 幻の森(1996)
  • ベウラの頂(1998)
  • 武器と女たち(2000)
  • 死者との対話(2001)
  • 死の笑話集(2002)
  • 真夜中への挨拶(2004)
  • ダルジールの死(2007)
  • 死は万病を癒す薬(2008)
  • 午前零時のフーガ(2009)
1月 13
ブルーマウンテンNo1(二日目)

実に上品な香りですね、と言ってしまいそう。私の事務所に入った途端に、お客様はこの端正なほのかな香りに包まれることとなります。千客万来、ブルーマウンテンNo1をお試しいただくのは、下の写真に示されるコーヒー豆が無くなるまでです。(三)

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1月 12
ブルーマウンテンとモカクラシックとのコラボ

家内から私へのプレゼントとしては、気が利いている。もっとも富谷町のエバンスへ、昨年の暮れにブルーマウンテンを受け取りに行ったとき、支払いはまだだと聞いて、私が代金を支払った。したがって正確には私が代金を支払った家内からのプレゼントだ。私は少し浮かぬ顔でエバンスの奥様へ代金を支払った。

この貴重なブルーマウンテンを1月12日に飲むことができた。豆を入れた容器には少しだけモカクラッシックが残っていたので、新しいブルーマウンテンNO1の豆と合わせて、カリタの豆挽き器で挽いた。ブルーマウンテンとモカとのコラボである。ブルーマウンテンNO1の豆はモカの豆より若干大きい。

味はどうか?「うーん」と言ってしばらく感想は出なかった。ようするに特徴がよく分からないのだ。モカは家内の好みで軽く炒ってもらっている。だから酸味が強い。しかしブルーマウンテンは深めて炒ってもらっている。この2種類の豆を合わせて挽いた時、豆から出る香りも何か中途半端な感じがした。これは失敗かな!と思った。見方を変えれば、ごく普通の炒り方と同じになったのかもしれない。(三)

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1月 11
正しいことが良いこととは限らない

これは私がまだ髭も生え揃わない16歳のころに、山本周五郎の小説「サブ」を読んで感動した一節だ。

そして還暦も近い58歳になって、山本周五郎の中でも最も好きな作品である「ながい坂」を中古品のtsutayaで上下各105円で購入し、通勤途中の電車の中で再び読むことにした。この「ながい坂」は10代、20代、30代の各世代の節目節目で読んでいた。それは年齢によって、同じ作品であっても、その印象や描写に新しい発見があるからだ。

今回はどうか?作品冒頭の「森番小屋にて」において、

「正しいだけがいつも美しいとはいえない、義であることがつねに善ではない」

の一節があった。確かに「サブ」の一節と似ている。そこで私なりに考えた。山本周五郎の作品には、武家物、人情物など多数の傑作があるが、みんなこのテーマが土台にあるような気がする。この物語の主人公、小三郎は、ある時から、自分の両親を本当の親と思えなくなってしまった。それは小三郎がまだ8歳のときだった。封建制度の中で下級武士の出自の小三郎は、釣りに行くためいつも通る私道上の小さな橋がある日、上役の家の者に壊され、一緒にいた父が抗議もせずに卑屈な態度をとったことに、胸に穴が開いたような衝撃を感じた。

あるべきものが無くなる、小三郎はそれ以来、固い殻の中に閉じこもったようになった。小三郎は長じて、三浦主水正となる。彼は自分と自分を周りを取り巻く縁者との乖離に苦しむ。私にはこのような三浦主水正の純粋な生き様が、若いころ、とってもうらやましく思えた。

さて私自身が長じて、同じような考えを持ち続けただろうか。「言わぬが花」を美徳と思い続けるのか、「言わぬはまやかし」とひねた目で見るのか、やはり今でも前者でありたい。正しさだけが唯一の美徳ではない。しかし正しいことを正しいと思い続け、少し回り道をしながら、時代を進む、三浦主水正であり続けたい。(三)

1月 09
枡の下に明かりをともす

レジナルド・ヒルの小説「闇の淵」の一節に、「枡の下に明かりをともす」ことが「謙遜すること」を意味すると書いてあった。なぜこの言葉が謙遜することを意味するのか、疑問に思った。インターネットで調べると、次のような言葉があった。

イエスは言われます。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」(ルカ11:33)

西洋における枡とは一体何なのだろうか?「枡」を辞書で引くと、お馴染みのコメの量を計るための一升枡がある。その他に相撲の桟敷席を升席と呼ぶ。多分升席の形が、一升枡に似ていることからこう呼ぶのだろう。

謙譲を意味するようになったのは、先の引用でキリストが言った言葉「穴倉や枡の下」がヒントだ。すなわち2000年以上前の枡とは、穀物を計るための枡であって、現在と同じ四角形をしていたのだろう。したがって、「枡の下に明かりをともす」とは、大きな枡を逆さにして、その枡の中に明かりをともせば、外からは見えない、そのことが外からは見えないところで善行を行うようなこと、すなわち、比喩的に見てどこか奥ゆかしい、謙譲の意味になったのかもしれない。

英語では謙譲をmodestyと言う。モデスト(modest)はロシアの作曲家ムソルグスキーの名前である。彼の代表作「展覧会の絵」は、そんな彼の奥ゆかしさの表れかもしれない。(三)

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 2011/3/19気仙沼

 
 

 キャンディ

 
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2002年2月に我が家の一員となったキャンディが2009年2月20日に死んだ。享年8歳、静かな死だった。人間の歳に換算すると48歳になるという。少し早すぎる死だ。在りし日の愛犬キャンディを偲んで、このサイトに元気だった時の写真を掲載する。合掌